第7回「不況期こそ企業と社員が成長できるタイミング」
2020.05.21 齋藤敬一
経営者の皆さんにとてつもなく大きな朗報です!!!
これから、コロナ禍による第二次大戦後最大の世界的不況が訪れると予想されています。
それが、何故、朗報なの?
実は、不況期こそ企業と社員が成長できるタイミングなのです? どう言うこと?
多くの企業が、これまでと同じことをしていたら明らかに売上も大きく下がり、利益に至っては、プラスどころか大きなマイナスに転じると思います。既に、いきなりステーキ、レナウン、トヨタ、ソフトバンクなどそれぞれ理由は違いますが業績を大きく落とす予測が発表されています。
しかし、ピンチの時こそ自社をブラッシュアップするチャンスなのです。まさに、社長の出番です。この機会をどうチャンスに変えるのか、社員の才能をどうすれば引き出せるのか、それを考え実行する大きなチャンスなのです。
これは、「ハイパーマーケティング」「クラッシュマーケティング」の著者、世界No.1マーケティング戦略コンサルタントのジェイ・エイブラハム氏も「クラッシュマーケティング」の冒頭で「ライバル企業に打ち勝つ好機である」と述べています。
少し引用しますね。
「私は不況が大好きだ。不況は、受ける痛手も大きいが、景気のいいときよりも悪いときのほうが、成長分野が豊富にあることに気づかせてくれる。不況においてこそ。ライバル企業の何周も先を走ることができる。要はこの苦境をバネにすることができれば、一人勝ちできるのだ。景気のいいときには誰も気がつかなかったビジネスチャンスや、市場、取引、発送に気づける……」(クラッシュマーケティング ジェイ・エイブラハム著 金森重樹監訳より)
さて、私が経験した事例をご紹介することにします。この一つの会社の事例は、経営者の在り方、社員の在り方においてとても参考になります。結構な長文ですが、面白く読めると思います。是非、お読みください。
私が、最初に入社したリクルートでの出来事です。1982年当時、リクルートの売上の100倍もあり発行部数世界一の読売新聞社が、リクルートの屋台骨事業の住宅情報(現SUUMO新築マンション)に読売住宅案内を創刊し、ぶつけてきました。これは、当時のリクルートにとって最大の危機でした。しかし、社長の江副浩正さんは、その危機をとても楽しんでいる顔をしていました。そうです。「千載一遇のチャンスが来たー!」という顔をしていたのです。
新入社員の私はその時「何で、そんな嬉しそうな顔ができるのだろう???」と江副さんを見ていました(リクルートでは、役職で呼ぶことは禁止されていて、誰であっても「さん」づけをしていました)。
マネジャーになって、理解できたのですが、江副さんにとっては、社員が必死になって自分たちの事業のことを考え、変革を全ての部署で行ってくれる千載一遇のチャンスだったのです。
人は、物事がうまくいっている時は、特に新しいチャレンジをしないものです。また、どこかに改善ポイントが無いかを必死になって考えることはしません。倍々ゲームで伸びていたリクルートでさえ、同様の兆しがありました。江副さんには、数年前にダイヤモンド社との戦いを勝ち切った経験がありました。この時も創業からの事業である新卒採用メディアマーケットをダイヤモンド社に狙われました。その時、リクルートが大きく飛躍するきっかけになるイノベーションが起こったのです。一人一人の社員自ら、仕事の仕方も含め大きな変革を起こしました。ですから、このピンチも大きなチャンスだと喜んだのでしょう。
江副さんは、全ての部署から、優秀な人材を引き抜き、住宅情報に投入して仕事の仕方を新たな視点で一から考え直す環境を作りました。一方、エースを抜かれた部署では、残りのメンバーの奮起が無くては、業績を大きく伸ばすことはできません。当然、他の部署では、屋台骨が狙われているのですから、自分たちが業績を伸ばして会社に貢献するチャンスだと思っています。残ったメンバーは、「何くそー!やったるでー!」「エースが抜けて大チャンス!俺らの実力を認めさせる時がきた!」と大きく奮起しました。
当の住宅情報では、間宮事業副本部長が、鬼の形相でリーダーシップを発揮していました。間宮さんにとっても自分を江副さんに認めさせる大チャンスだったと思います。実際、このときの活躍が認められて、社長室長に抜擢されました。
江副さんからのリクエストは、住宅情報事業の全てのプロセスを見直し、変革することです。勿論、読売住宅案内に勝つと言うことは、全員の目的でした。そうでなければ、会社が潰れてしまうかもしれないことは、新入社員でも想像できていました。
この時、江副さんは、分かりやすい一言を発しました。「住宅情報を1週間で発行できる様にしろ!」です。それまでは、発行まで2週間かかっていました。そして、読売さんの方は、始めたばかりなので3週間かかっていたのです。
これができると、読売さんよりも2週間多く営業ができる様になります。情報誌は、情報の鮮度が命ですから、そもそも読者にとっての価値が全く違います。また、クライアントに取っては、毎週の販売実績を直ぐに、広告にフィードバックできる様になりますので、これも大きく価値が上がります。
しかし、そんなに簡単に本の発行プロセスを変えることはできません。何せ、自社だけで作っているわけでは無いのです。つまり、若くて元気な私らが徹夜してやったとしても同じことを大日本印刷さんや大日本インキさん、図書印刷さんなどに強要はできませんから。
私は、ビックリしたのですが、何と半年で14日かかっていたプロセスを10日に縮めたのです。これは、リクルートコンピュータプリントさんや編集部などの凄まじい努力と大日本印刷さんなどの外注先の本気の協力により達成されました。そして、なんと1年後には7日になっていました。売上を倍にする方がよっぽど簡単だと思ったのは、私だけではなかったでしょう。
一方、この方針により、営業プロセスも制作のプロセスも短期的な提案(チラシ的)では無く長期を見据えた顧客への提案(採用広告の手法を応用)とマンション購入希望者達の生の反応を見たタイムリーな提案、この両方をフレキシブルにできるようになったのです。それぞれが現場で開発されました。
他にも様々なブレイクスルーが現場で生まれたのですが、それにより、リクルートは、情報誌ビジネスに必要な新たな知見を獲得し、それからの10年間の成長エンジンを創ることができたのです。
もし、あのときに読売さんがリクルートを倒そうと本気で挑んでくれなかったら、その後のリクルートはなかったと思います。あの後にできた情報誌、じゃらん、ab-road、CAR SENSOR、ガテン(現TOWN WORK社員)ゼクシィなどは、全て住宅情報で生まれたノウハウが生かされています。その後の10年間は、様々な情報誌事業を立ち上げることで100億以上の新規事業を次々に創ることができました。
次の大きなピンチは、リクルート疑獄ですが、これは、業績的には大きな痛手はあまりありませんでした。世の中がバブル景気に乗っかっていたために、採用も不動産もそれこそバブルで、お蔭様でリクルートは大儲けさせていただきました。
ただ、心の大きな支柱である江副さんを失ったことが、社員にとって、リクルートにとっては大変なことでした。しかし、読売さんとの戦争に大勝ちして、自信を得たリクルートには、大きな財産がありました。それは、役割意識(自分の職級の一つ上の視点で考え、行動する)、ピンチをチャンスに変える人財、チームワーク、そして文化です。
1988年9月だったと思います。まだ、暑い時期でした。楢崎議員の告発の後だったと思います。すぐに、自然発生的に若手部長クラスによる未来経営会議が始まりました。役員からの指示で動いたわけではありません。そこには、のちに杉並区の和田中を区内随一の学校に育てた藤原和博さんや横山清和さんをはじめ、後に、個人としてもすごい実績を上げ続けたメンバーが集まり、熱い議論が繰り返されました。その最中に、横山さんは、週刊就職情報をB-ingとして再創刊し、「前向きな転職」マーケットを創造するというとても大きな業績を創りました。「B-ing創刊」を提案した最初の取締役会で江副さんに「お前の能力はそんなものか!」と一喝された横山さんが、修羅のごとくの形相で、その日に徹夜で事業提案書を書き直して再提案し取締役会を通した鬼気迫る迫力を覚えています。
また、藤原和博さんは、ロンドン留学から帰国後すぐにフリーペーパー化を提案しました。生活情報360°、タウンワーク、Hot Pepper、住宅情報タウンズ(現SUUMOマガジン)などが実現、多くの情報誌がフリーペーパーになり、その後、Webとハイブリッド化される流れも藤原さんの提案がきっかけになっています。
本当の次のピンチは、バブル崩壊の翌年でした。採用が見送られ、住宅も全く売れないほどの不況が来たのです。それまでは、不況になるとマンションが売れにくくなる=広告出稿が増える=住宅情報の業績が上がり、リクルートブックやB-ingの出稿が減ってもリクルートの成長は担保されていました。しかし、バブル崩壊は、その事業構造を根本から破壊してくれました。リクルート始まって以来の減収減益になったのです。
リクルートは、銀行から10兆円とも言われる借り入れをしていました。財務の戦略でメインバンクを作らないと言う作戦できていましたが、殆どの都市銀行から大きな借り入れをしていました。貸してくれている理由は、高収益と高成長だったのです。1992年に江副さんは、経営責任を取りリクルートをさり、バランスが良い位田さんが2代目の社長になりました。江副さんの持っていたリクルート株は、ダイエーの中内さんが引き取ることになり、ダイエーからは中内さんの右腕の高木さんが取締役としてこられ、実質的にはダイエー傘下になると言う全く想像していなかった新世界が来たのでした。
リクルートの社員は、酷く動揺しましたが、リクルート事件でのバッシングに耐えて心も鍛えられていたことも幸いしました。
しかし、創業初の減収減益により、リクルート事件下でも増収増益を繰り返し天狗になっていたリクルート社員は、伸びた鼻を折られたのでした。
ここで、横山清和さんが大きな改革を行います。B-ing創刊後、研究職としてモチベーションリソースの研究をしていたリクルートの頭脳、横山さんの出番となったのです。
彼は、顧客との真の信頼を取り戻すにはどうしたらいいかを考えました。大ピンチなので、本来であれば競合にとってのチャンスなのですが、先手を打つことができました。ここでも、社員の役割意識が生きたのです。B-ing創刊という大業を完成させた横山さんは、常に、先を見て準備をしていました。その研究成果を自社で試す機会が生まれたのです。彼は、このピンチをリクルートが一段と強くなる機会として捉えたのです。
そのために最も重要なことは、顧客との深いコミュニケーションでした。それにより、深い信頼を得ていくのです。幸い、どの企業も不況に喘いでいました。そこで、横山さんは、コミュニケーションエンジニアリングと言う考え方を生み出し、リクルートの全マネジャーと全営業マンに凄く中身の濃い研修を受けさせることにしたのです。もちろんその研修は、横山さんのチームが作り上げたものです。私も山下もこの研修を受けました。凄くよく覚えています。僕らの知的好奇心はとても満たされたのです。同時に、この研修を全社展開するために、映像も活用することになったので私たちは、仕掛け側としても関わることになりました。ここでも良い経験が積めたことはとても良かったと思います。
この研修をきっかけに、リクルートは顧客とのコミュニケーションの質を高めること、そして、マネジャーが社員の才能を引き出すマネジメントスキルを身につけることで、大きく業績を高めることができました。1年でV字回復し、また、増収、増益に転じたのです。
その後のリクルートは、ご存知の通りで2018年度決算では売上高2兆3,107億円、営業利益で2,230億円の会社まで成長しています。2019年度の決算がまだ発表されていないですが上々後もずっと高収益、高成長を続けています。かつてリクルートを新参者として攻撃してきたダイヤモンド社も読売新聞社もこんなにも業績で離されることになるとは想像もしていなかったと思いますが、彼ら先輩企業の本気の対抗策のお陰と、様々な不況のお陰で現在があると思います。
自己変革を迫られるピンチを作ってくれたわけですから、江副さんにとっても当時一緒に働いた仲間にとっても外敵からの厳しい攻撃は、今では感謝でしかないと思います。
今のリクルートは、私がいた頃とは事業モデルも様変わりしていますが、それは、予測通りです。世の中の情報がwebに移行し、紙媒体がどんどん無くなって行き、多くの出版社は構造的不況に苦しんでいますが、常に、「自ら機会を作り出しその機会によって自らを変え、成長し続ける」と言う文化が社員にDNAとして息づいているリクルートは、試練を餌にどんどん成長すると言うモデルを生きています。当然、ピンチをチャンスにすることは、彼等にとっては当たり前のことなのです。今回の世界的危機でもきっと奇跡の成長を遂げると信じています。
このリクルート社の例において言えることは、経営者がいかにピンチの時に「社員をリードし、大きな脱皮を促し、実行しきるか」がポイントであると言うことを証明しています。
さて、皆さんは、不況をじっとやり過ごすのか、不況を自己成長の大きな機会にするのか、どちらを選択しますか?